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久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説――アクターネットワーク論から存在様態探求へ――』月曜社,2019年



最近あちこちで名前を耳にするブルーノ・ラトゥールの「取説」。
おおざっぱな印象で言えば,ドゥルーズのアジャンスマン/アレンジメントを具体化したような話だった。
だからといって意味がなかったとか,つまらなかったと言っているのではない。
細部を詳らかにすることそのものに重大な意義があるということもある。
また,それこそが本書を通して著者が提示するラトゥールのアプローチの根底にあるものともいえるだろう。
同じキーフレーズをあちこちで何度もくり返すことによって,わかりにくい思考をさまざまな議論と接続するしくみも意図的なものだろう。

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強調されるのは,非還元の原理である。
すなわち,何ものをも大きな原理に還元することを退ける。
テクノロジーや科学の正しさは,自然の摂理によって決まっているもののように見える。
しかし,その実,それらは社会的な規約によって左右されるものでもある。
ラトゥールは自然にも社会にも還元することを避ける。

くり返されるフレーズは「原理的に還元不可能な諸要素の原理的に制限のない結びつき」である。
この結びつきこそがアクターネットワークである。
ネットワークを構成する要素は「アクター」と呼ばれる。
アクターは人間であることもあれば,非人間のこともある。
生物どころか,鉱物資源や抽象概念でもかまわない。
その意味でこれは「異種混交的なネットワーク」なのである。
そして,いずれかの要素が一元的にネットワークを支配することもない(対称性)。
ただし,少数の要素がネットワークの働きをほとんど決めてしまっているように見えることもある。
その場合は,諸要素が「媒介項」であることをやめて「仲介項」となっているのである。

しかし,いくら社会的なものがテクノロジーや科学を左右するからと言って,自然の摂理そのものを曲げることはできないのではないか。
この疑問については,周到な議論が提示される。
まずは,現代の科学研究をモデル化(カリカチュア化?)した事例が挙げられる。
研究室では,研究員が日々実験をくり返し,新たな化学物質の有用性を実証しようとしている。
一方で,研究室のボスは世界中を飛びまわり,この物質に関わるさまざまな議論に関わったり,予算の獲得や法整備に駆け回っている。
めずらしくない研究室の風景である。
このような状況を目にすると「本当に」科学研究をしているのは研究員であり,ボスはそれをバックグラウンドで支えていると言いたくなる。
本当にそうなのだろうか。

一年間の観察を終えてお互いの日誌を読み合わせた二人の観察者は気づく。彼女の論文が受理されたのはボスが創設を提案した学会誌の新セクションである。彼女は(ボスの大統領執務室でのスピーチの後で)糖尿病協会の資金援助によって新しいテクニシャン(実験補助員)を雇用することができたし,いまでは畜肉処理場から以前より清潔な視床下部を得ているし,脳中のペプチドを精密に示すことのできる機器を(ボスが設立を支援した)スウェーデンの企業から提供されている。彼女が実験室の内側において「確固たる科学」を進めるためにこそボスは実験室の外側でより多くのアクターを巻き込まなければならず,ボスが世界中を飛びまわって同盟者を増やすほど彼女の「科学」は確固たるものになっていく。(p. 102)


これでもボスが単に科学研究の「バックグラウンド」を支えていると言っていいのだろうか。
研究員が物質を同定しその性質を明らかにするには,精度の高い資料が必要だが,それを得るための手続きも,そのための機器,テクニシャン,資金もボスが整えたものである(法整備も必要かもしれない)。
それらなしにこの研究はなしえなかったのではないか?
単に何らかの機械的な事実を発見することではなく,こうしたネットワークを作り上げることそのものが科学研究というものなのではないか?

それでも,ボスのこうした「根回し」がなかったとしたら発見はなしえなかったとしても,ある化学物質が存在することそのものは社会的なものとは無関係ではないか,といいたくなるかもしれない。
だが,ラトゥールの議論はそのことをも否定する。
19世紀後半,パストゥールは乳酸発酵素を発見した。
それまで,誰も乳酸発酵素の存在を認めてはいなかった。
この事態に対して,パストゥールの発見以前には乳酸発酵素は存在しなかったと言ってしまうのである。
もちろん,酵母がパストゥールの発見と同時に突然存在するようになったと言っているのではない。
「乳酸発酵素」というものが,パストゥールの発見を通して,そして,その後の「乳酸発酵素」への人々の関わりによって「乳酸発酵素」になったのではないかと言っているのである。

パストゥールが諸アクターを組織することを通じてxの性質や働きが形成されていくのであるから,確かに彼はアクターx=乳酸発酵素を「制作」している。(p. 115)
しかし,彼の活動を通じてxが他のアクターと関係づけられていくことは,(b)<他のアクターの有様が乳酸発酵素との関係に次第に依存するようになっていくこと>でもある。発酵をめぐる多くの要素(培地の性質,溶液の科学的組成,生化学,チーズの製造法など)が乳酸発酵素の存在をあてにして定義され変形されるようになるにしたがって,乳酸発酵素の「事実らしさ」が高まっていく。パストゥールもまた,「乳酸発酵素の発見者」としての自らの地位や名声を,発酵素の働きに大きく依存している。(p. 116)


つまり,現在「乳酸発酵素」と呼ばれているものとそれ以前から存在した物質はもはや同じものではない,それは新たなネットワークの中で新たなアクターとしてふるまうことになったのだから(ここで,物質としては変化しないのだからとなおも反論することもあまり意味がない。おそらく「物質」というのは科学的説明というネットワークの中で,そのように変質しないものとしてのふるまいをするアクターなのだろうから)。
ともあれ,ここまでのディティールがなければ,この議論はここまでの説得力を持たなかっただろう。

科学とテクノロジーが社会にも自然にも還元されないことを論じたのと同様に,社会もまた社会的なものに還元されない。
だからといって,還元することそのものも完全には否定されないのがラトゥールの不思議なところである。
「いかなるものも,それ自体において,何か他のものに還元可能であることも還元不可能であることもない」。
還元可能でないことについては上にも述べたが,一方で,自然も社会も一定の説明の枠組みとしてこれまで機能してきたし,これからもそうでないというわけではない。
ただ,いずれかの説明だけがすべてではないというわけである。

では,結局のところ何が言いたいんだと聞きたくなるのが人情というものである。
これに対して,著者は序論から「ラトゥールを真面目に読むことはできるが,真面目に読みすぎてはいけない」(p. 22)と述べている。
何らかの価値体系に帰着しないので,むしろそれを維持し続けようとするのだから,どっちつかずでふらふらしているだけ,結局,真理なんてものはないのさといった態度に見える。
だからといって,知の可能性を閉ざしているわけではない。

知ることは関係づけられることであり,関係づけの可能性において私たちは認識できないものとも確かに関わっている。(p. 219)


われわれもまた本書を通してラトゥールの思想と関係づけられることになったわけだ。

さて,ラトゥールのアクターネットワーク理論では,架空のアクターの存在も想定されている。

非近代社会が「不可視のもの」を捕捉し明示化し儀礼化するための膨大な努力を払ってきたのに対して,近代社会はそれらを「精神」へと押し込める。換言すれば,モノと知性の透明な対応への希求[dc]によって,物質の世界に収まらないあらゆる余剰物が「象徴的なリアリティ」の世界に放り込まれるようになる。とりわけ「常に人間という主体が意味づけ解釈するもの」だと誤解されてきたのが,言語をはじめとする虚構という存在様態[fic](fiction)である。(pp. 212-213)


生物だろうと物質だろうと,機能していれば突っ込む,アレンジメント的な,記号的なネットワークを考えているのだから,当然,観念的なものもアクターになりうる。
ただ,観念はやっぱりモノと同じとはいかないのかもしれない。


虚構[fic]は存在者を組み合わせ,それらに主観や想像といった特定の形象(figure)を持たせることができる。ただし,形象は極めて脆弱であり常時の配慮が必要となる。(p. 214)


しかし,だからといって虚構の存在を他のアクターと本質的に違うものと考える必要はないだろう。
物質であっても脆弱な存在はあるし,われわれ人間だって他の多くのアクターに支えられて成立している。
われわれが意識を向け,コミュニケーションを通して維持しなければ観念は消え去ってしまうかもしれないが,われわれだって食物を摂取し,大気から酸素を取り入れなければ生命を保てないのである。
観念は人によって,時代によって解釈や意味そのものが変わってしまうというかもしれないが,われわれ自身だって時間とともに人格が変わることもあれば,細胞レベルでは日々別のものに入れ替わる途上にある。

いまのわれわれの認識の枠組みでは,つまりは,現実世界に対する認識というアクターネットワークでは,虚構の存在というものは存立するための独立の次元を持たない。
しかし,アクターネットワーク理論からすれば,そうでなくてもよいということになるだろう。
アクターの結びつきを考える上でそのような世界観が有効であれば,物質の次元でも精神の次元でもない,虚構の存在が存立する記号の次元が考えられてもいいはずだ。
何となれば,いまのわれわれの物質と精神という考え方もひとつまたはそれ以上のアクターネットワークなのだから。
こうしてみると,スピノザが延長と思惟を神の持つ無限の属性のうちの2つであり,人間はたまたまそれらを認識しているだけだと考えたことが思い出されてくる。
記号の次元に存立するアクターが極めて脆弱な存在であったとしても,その存在を想定することが極めて合理的な世の中が訪れることは不可能ではないかもしれない。
ある人の精神から音声や文字を通して別の人の精神に観念が移されるなどと考えるよりも,観念そのものが存立する次元があって,人間やメディアといったアクターと相互作用することによって維持されたり変質したりしているのだと考えるほうがつごうがいいかもしれない。
一対一の伝達モデルを考えるよりも,そのような次元を考えたほうが集団レベルでの情報伝達や長期間を通しての文化の継承と変化を考える上では便利かもしれない。

2019.08.28 wed l 思想 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源――』(夏目大 訳)みすず書房,2018年



タコの心身問題というタイトルだが,心身問題については扱っていない。
原題は『other minds: the octopus, the sea, and the deep origin of consciousness』で,タコという人類とはまったく違う神経系を備えた生物から意識や知性のありかたについて考えようとする本。
したがって,サブタイトルの「頭足類から考える意識の起源」のほうが内容を適切に表している。
著者は哲学者なのだがスキューバダイビングが趣味で,海に潜ってイカやタコと交流を持つうちにそれらの動物の知性や心について興味を持つようになった。
その結果として生まれたのが本書である。
前振りとしては趣味の延長として紹介されるが,海や生物に関する著者の関心は本格的なものである。
注を見ながら読むと,著者自身が生物や進化に関する哲学論文をいくつも執筆していることに気がつく。
タコやイカに限った話ではなく,生物学や動物行動学などの研究成果に基づいて生物全般における進化という観点から議論がなされている。
カンブリア紀に先立つエディアカラ紀のことなんて全然知らなかったし,最新の進化生物学の情報としても興味深い。
また,著者のように哲学者という立場からこういう研究に関わっている人がいることがわかって面白かった。

その一方で,最後まで通して読むと,本としての構成がいまいちかなと思った。
最後の章が著者らによる最近のフィールド研究の様子と海の環境問題の話になっているのが微妙である。
この構成のために話が拡散して終わる感じがする。
この手の本で,結局,心とか意識とは何かということにきっぱりとした結論や問題の解決が得られることはないだろうということは予想されるし,その辺はまあそんなものかと思う。
しかし,途中の章にはせっかくいろいろと面白い研究結果や進化論に基づく説明,著者独自の考えもあるのに,最後が著者の経験と一般論に終わってしまうのでは何だか物足りない。
できれば,著者のフィールド経験や頭足類の生態の話と理論的な話を交互に展開したほうがよかったのではないか(たいへんだとは思うけど)。
あるいは,せめて最後は理論的な展望で締めたほうがよかったのではないか。
そんなわけで,本書が科学界隈の人に好評だったことはよくわかるのだが,一般のベストセラーに食い込んだというのはちょっと意外である。

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本書では,意識というよりもその一歩手前の主観的経験にスポットが当てられる。
主観的経験のルーツのひとついとして,フィードバックが特に取り上げられる。
フィードバックは行為と知覚が相互作用する場だが,これはさらに多くの要因と絡まりあっている。
著者はフィードバックをゆるやかに自他の区別と結びつけて考えている。

たとえば,ミミズは通常,何かが自分の身体に触れれば,すぐに後退りする。危険が迫っている可能性が高いからだ。しかし,ミミズが這って移動する時には,常に同じように何かが身体の一部に触れていることになる。その場合,触れたと感じる度に後退りしていたら,まともに移動することはできなくなってしまう。ミミズが移動できるのは,自らがつくり出した触覚を何らかのかたちで打ち消しているからだ。(p. 102)


つまり,適切な行動を取るための情報を得るには,自他の区別ができなくてはならない。
情報をフィードバックとして受け取るには,そのソースの自他の区別ができていなくてはならないのである。
そう考えると,意識の起源には自己と他者の区別があるということになるのかもしれない。
そのことを形而上学的な理念からではなく,生物の行動から導けるのだとしたら面白い。

また,生物の寿命についての議論も興味深かった。
年取った個体が死ぬことで若い個体に資源が行き渡り,種全体としては効率的であるという議論は循環論法であるという指摘はなるほどと思った(p. 198)。
もともと寿命(高齢化に伴う生命力の低下?)を仮定しないのであれば,つまり,年を取っても個体に衰えが生じないようなシステムが作られているのであれば,高齢の個体が若者に席を譲るといったことを考えなくてもよいはずである。
その場合,高齢の個体のほうが経験の蓄積やすでにある程度の淘汰を潜り抜けていることから,今後も子孫を残すうえで有望な個体であるといえるかもしれない。
つまり,高齢化に伴う変化を前提としているからこの議論は成り立つのである。

このあたりのことを読んでいて,では,なぜ寿命を設定している生物が多いのかといえば,もしかしたら履歴の汚染ということに原因があるのではないかと思った。
経験の蓄積が,学習の結果が個体にとって余計になるということがあるのではないか。
通常は学習によって個体はより適応的になり,生存の可能性が高まることが期待される。
しかし,環境は変化する。
その変化に伴って学習の結果が有用でなくなり,逆に害になることもありうる。
経験の蓄積がありすぎると,これまでの学習結果が新たな学習と干渉し,かえって適応を阻害することもあるのではないか。
つまり,履歴のリセットを行う手段として次々に新しい個体を求めるということがあるのではないか。
ここでは,シミュレーションゲームのユニット育成のようなことを何となく想定している。
中途半端に育ててしまったユニットを何とかするよりも,新たにいちから育てたほうが理想に近いユニットを育成しやすいだろうということである。
現実世界のリソースやタイムスパンではこういうことは非常に困難だが(むしろ,にっちもさっちもいかなそうなものを何とかするのが現代社会の課題であるような気がする),進化のスパンでは十分に可能なことなのではないか。

ここまで書いてみて思ったのだが,これはどうも高田裕三氏の長編漫画『3×3eyes』の三只眼吽迦羅の設定のようである。
三只眼吽迦羅は不老不死の妖怪で,事故や病気などの理由がないと死なないために極めて長命である。
そのため,めったに子孫を作ることはない(個体を増やす必要性が低い)。
ただし,あまりに長い時を生きるため高齢化とともに(肉体的には変化がないものの)次第に精神が退廃し,無気力・無感動になっていく。
実際にこのような精神の退廃化,あるいは,学習履歴が多すぎるがために機能性が低下するということはありうるのだろうか。
ウェブブラウザなどはまさにそれで,たまにキャッシュをクリアするかどうかが問題になるわけだが。
履歴を消去すれば解決するのなら,生物もそうすればよいのではないか?
それよりも,ゲームのユニットのように,いちから育て直したほうが早いということなのだろうか。

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加藤重広『言語学講義――その起源と未来――』ちくま新書,2019年

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読みやすい文章で,ゆるやかに話題がつながっていく感じはまさに講義のようだと思った。
全体の構成も不思議である。
第1章で言語の変異と言語死,言語政策など,社会言語学の話題がさまざまに紹介される。
第2章では変異の話を引き継ぎつつ,語用論に展開し,役割語やさらに広い話題に広がっていく。
第3章になって近代言語学の成立史の話になる。
ソシュール以前の話についてあまり知らなかったので興味深かった。
第4章は,成立史の余韻を残してか,科学としての言語学というスタンスについて論じられ,そこから記述言語学の方法の紹介に進む。
日本語の変異が例として挙げられ,記述言語学の研究のようすについてもうかがえる。
第5章では,言語学の研究のありかたから説き始め,ソシュールが外野では人気なのに対して言語学ではどうなのかという話になる。
そこから構造(システム)としての言語という考え方について問い直し,複雑系言語学という現代的な見方についての話になる。
こんな具合で,著者自身も認める通り,体系的に完結した構成ではなく,おおまかに,連想に導かれるかのように話題がつながっていく。
ときおり,言語学とは直接関係のない,処世訓であるかのようなつなぎの話が入ることがあり,そこも面白い。
それらが全体としてまさしく講義のようである。
読みやすい反面,いくつかの話題や用語は説明がないとちょっとわかりづらいのではないかなと思った。
その意味で本書は「講義」ではあるけれども,最初歩の「入門」となりえているだろうか。
エッセイ的にいろいろな話題が楽しめるという点では導入になっているが,多少のハードルが感じられないわけではない。
このあたりのバランスやタイトルを含めたアナウンスについては,編集者がもう少し手を入れてもよかったのではないかと思う。
すでに言語学に興味がある人,生成文法以外のものも知りたいという人にはすぐに楽しめる一冊だろう。

2019.05.01 wed 【予告!3月1日(日)楽天カードで最大P27倍】 マツダ アクセラスポーツ BL系 マツダスピード WEDS クレンツェ グラベン680EVO BK/POブロンズクリア ファルケン ジークス ZE914F 225/40R18 18インチホイールセットl 認知科学 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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ダン・ブラウン『オリジン(上中下合本版)』(越前敏弥 訳)角川文庫,2019年



今回も角川文庫の三冊合本のkindle版という説明しづらい版で買った。
相変わらずのテイストと展開のパターンではあるが,失速を感じないのはさすが。

何よりもウィンストンである。
今作はいまいちヒロインのパンチが弱いと思ったが(快活でユーモアのある才女なのだが,もうひとつインパクトが薄い),それはバディとしてのウィンストンの印象が強いせいでもあろうと思う。
万能のパートナーで,ていねいな口調でありつつもときに主人公を揶揄したりするような様子はナイトライダーのキットを思わせる。
ここまでいいキャラクターだと,何もなしに終わるなんてありえないだろうと思ったら案の定である。

スマートホンを通して最新のネットワーク技術を駆使しまくる様子は相変わらずである。
そうしたシーンを描きたい小説のお手本になりそうである。
スペイン各地の名所・美術品案内もきっちりこなし,アクションとサスペンスも押さえている。
すべてが気持ちよく及第点をクリアーしている。
この先もずっと引き合いに出したい一冊かと問われると疑問に思うが,いま十分に楽しめる一冊である。

松尾豊氏による解説も良かった。
作中の技術のうちすでに実現しているものと可能性にとどまっているものを整理しており,そうした面に興味のある向きにはありがたい。

テーマである2つの問いへの回答はぼちぼちか。
われわれはどこから来たのかという問いには,シミュレーションを使って物理法則だけから生物が誕生しうることを示したという成果が語られる(この部分は,解説にもあるようにフィクションである)。
しかし,そのことが実証されたからといって,そのような物理法則を作ったのは誰かという問題は解決しないだろうというラングドンのつっこみはバランスが取れた視点だと思う。
われわれはどこへ行くのかという問いにも,シミュレーションによって答えられる。
何度やっても人類はあと50年程度で姿を消し,現在の生物の6つの界に属さない,第7の界,テクニウムにとってかわられるという未来が現れる。
しかし,それは絶望の未来ではない。
テクニウムは生物ではなく,テクノロジーとその産物を指す。
そして,人間はこのテクニウムに吸収される形で生き残るのである。
すでに人間はさまざまな情報機器を利用して生きることに慣れ,身体に何らかの危機を埋め込んだり接続したりして生活している人もいる。

われわれは混合種になろうとしている――バイオロジーとテクノロジーの融合です。いま体外にあるツール――スマートフォン,補聴器,読書用眼鏡,たいがいの医薬品――と同じものが,五十年後には体内に組み込まれ,われわれはもはやホモ・サピエンスとは呼べない存在になっているでしょう。(no. 8116;ただし,傍点を太字で代用)



グロテスクなイメージにも思えるが,語られるのは明るい楽観論ともいえる未来像である。
議論の方向性としては『ホモ・デウス』が思い出された。

しかし,どこから来たのかとどこへ行くのかの答えが対になっていないのが気になる。
前者には抽象的な原理・原則のレベルで答えているのに,後者には具体的な未来予測で答えている。
あとは,シミュレーションに基づく結果は不確実性を備えたものだということもある。
この点については,作中でもラングドンが一瞬だが懸念を表明している。
シミュレーションは初期状態や制約などによって結果が大きく変わることがあり,要するに,作った人間の限界が問われる。
その点で数学的証明とは異なる。
むしろ,それらのシミュレーションを可能にした新型量子コンピュータのほうがすごいのだが(その点もいちおう説明はされるが,マニアックすぎるので,すごい用語を並べるだけに留められている)。

とはいえ,こういう時代の空気感みたいなものを手軽に味わえるという点ではすばらしい。
文章だけで表現されているのに,カーシュの(ted的な)プレゼンテーションの様子がよく想像できる。
この作家はビジュアルイメージを伝えるのがうまいのだと思う。
『ホモ・デウス』の論調も,ハラリだけのものではなく,近い領域の人々が共有する空気を反映しているのだろうなというのが感じられた。

2019.04.03 wed l

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永井均『西田幾多郎 言語,貨幣,時計の成立の謎へ』(角川ソフィア文庫,2018年)



昔,nhk出版のシリーズ・哲学のエッセンスで出ていたものの増補改訂版である。
哲学のエッセンスのときは,永井均に興味があったので買ってみたものの,よくわからなくて途中で放り出してしまったおぼえがある。
今回もそんなに期待しないで読み始めたのだが,読んでみると議論の内容がけっこうわかるようになっている。
文章そのものの書き方はぶっきらぼうというか,あまり前置きとか足場作りもなく議論がはじまってしまうので,関心を共有していないとついていけなくて放り出してしまうのもよくわかる(ある程度わかってもついていくのが厳しめの書き方だと思うが)。
ちなみに,この本はふつうに西田幾多郎の哲学について知りたいと思っている人にはまったく勧められない。
最初から最後まで「私」の議論に関係する上での西田の話だけをしていて,西田哲学の全容も人となりもほとんど話題に上らない。
元本のシリーズの決まりで小伝がついているものの,それもおざなりに見えるし。
一方,この話題に関心があって,ある程度それを「共有」できる背景がある読者には面白いだろう。
全体的に,わりとマニア向けの本だと思う。

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冒頭から川端康成の『雪国』の描写の話題からはじまる。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というやつである。
この文は,日本語の特徴とか,日本語には「私」がないといった議論でよく引用される。
永井均の議論はさらに突き抜けている。

もし強いて「私」という語を使うなら,国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという,そのことそれ自体が「私」なのである。だから,その経験をする主体は,存在しない。(no. 115)


開始から2~3ページでこれではそうそうわかるものではないだろう。
しかし,こちらはたままた映像を見ているときの「私」とは何だろうなどと考えていたおかげで,なるほど,そういう見方になるのかという感想になる。
この「私」は物語世界を見ている枠としての私であるから,当然その世界の中にはいない。
そして,その世界を直接に経験することもない。
だから,これは読み手としての「私」であると考えてみてもよい。
ただし,この現実世界の「私」もまた直接にはこの雪国を経験することはないから,その意味では(その世界には)存在しない「私」ともいえるのだ。

この本は西田幾多郎についての本であるが,デカルトの議論も出てくる。
「われ思う,ゆえにわれあり」の論証について,思っているからには存在していなくてはならない,「思うものは存在するものである」という意味的な要請に基づいた議論なのではないかということを少し前から思っていた。
この議論がまさにこの本で論じられていた。

「私は思う,ゆえに,私はある」という認識が確実なのは,「思うものが思っているまさにそのときに存在しない」ことが「矛盾」だからである。それは,一般的かつ客観的に,矛盾なのである。(no. 409)


読んでいたのにすっかり忘れていたのか,この部分まで読んでいなかったのか。
しかし,永井均の議論の焦点は,意味に基づくことではなく,その一般性にある。
つまり,私が思っているという個別的な経験の話だったものが,誰もが理解する意味や論理といった一般的な原則をいつのまにか前提してしまっているではないかという指摘なのである。
ただ,デカルトはそのような論理性を根拠にしたつもりはなく,「この一般的な認識は,自分自身における特殊な直接的認識から発見されるほかはない」(no. 422)と考えていたようである。

ここで,論理と経験,あるいは,意味と経験の二重性が問題となってくる。
デカルトは素朴にその一致を信じていたようだが(少なくとも,この本ではそういう見方である),西田とウィトゲンシュタインはこの点にそれぞれ違った方向から違和感を抱いた。
やや図式的ではあるが,論理を優先しそちらを徹底しようとしたのが西洋哲学とウィトゲンシュタイン,直接経験を根底的なものと考えて徹底しようとしたのが西田幾多郎ということになる。
経験を欠く空疎な言語ゲームか,何ごとも語ることのできない純粋経験か。
もちろん,純粋経験の立場であっても,言語が現実に可能であることを説明できなくてはならない。
だから,「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿して」(no. 547)いると考えることになるのである。

そんななかで,ちょっと寄り道的に天才についての所見が語られたりもする。

ここで天才とは,並外れて頭がいいというようなことではなく,むしろ逆に,普通の人が即座に(あるいは最初から)分かってしまうことがなぜかどうしても分からず,しかも信じがたいほどあきらめが悪く,執拗にその理路を問い続ける一種の化け物のことである。(no. 818)


いつもの永井先生の哲学者論である。
ウィトゲンシュタインのようなタイプの哲学者については,本当にそうだなあと思う。
しかし,哲学者は必ずしもこのタイプだけでないような気もする。
ドゥルーズなどはどうなのだろう。
余人の思いも至らない問題に目を付けるという意味では似ている気はするのだが,ウィトゲンシュタインのように神をも問い殺す感じでもない。
ウィトゲンシュタインが極端なのかもしれないが。

さて,論理と経験の話は,私の存在を証明するときだけでなく,他者の存在を証明するときにも問題になってくる。
田辺元の批判を受けて,無であるはずの場所(私)がどのようにして自己を限定するのかという問いに対し,西田は「私と汝」という論文で答えたものとみられる。
私は世界の中におらず,ただそれらが存在する「場所」としてのみあるのなら,確かにどうして私というものを規定できるだろうか。
それに対し,何と西田は,他者と出会うことによって,と答えている。
しかも,その私と他者を結びつけるのが言語なのである。

――汝以外のあらゆるものは,人間を含めて,すべて「私に於いてある」と考えることができるが,汝だけは,「私に於いてある」と考えることができない,「私に於いて無い」ものである。私と汝を包摂する一般者も存在しない。しかし,それにもかかわらず,その私を限定するものは汝だけであり,私はただ汝を認めることによってのみ私たりうる。ただし,私が「汝を認める」のはあくまでも「私自身の底に」であって,そこに「非連続の連続」というものが考えられ,私と汝をともに限定する同一の原理――具体的には言語――が存在しうることになる。(no. 1050)


私が世界に対する探求をつきつめていけば,すべては私に対する現れであるという風に考えることができるかに思えてくる。
だが,そのなかでなぜかどうしても私の中から現れてきたのでない,私でない者に出会うことがある。
その非連続を作るものこそが他者であろう。
しかし,この他者をどうして他者とわかるのか。
私に理解できないはずのものを理解できるのは矛盾ではないか。
そこに言語というものが関わる。
なぜだか知らないが,言語というものは私と他者の間で共有されているルール,共通の論理のもとで働くものなのである。
共通の論理に基づいて働くものだからこそ,私と他者が違うということがわかる。

しかし汝は(ありえないはずの)別の無の場所という資格で,この無の場所に登場してくる。どうしてそんなことができるのだろうか。それは,先まわりしていえば,汝が言葉を語りうる存在だからである。もっと正確に言えば,そんなことができるということがすなわち言語(言語化された新しい種類の場所)の成立そのものなのである。(no. 1091;ただし,傍点を太字で代用)


永井均の考えからすれば,言語がそういう奇跡的な機能を持っているというよりも,そういうものこそが言語と呼ばれるのである。

同じことを逆の側から言えば,そういう汝が存在していることこそが,そもそも言語というものを可能ならしめているのである。(no. 1111)


つまり,ここで,私と他者と言語は一挙に,同時に与えられるものである。
どれかひとつだけが先行することはできない。
できるとしたら言語かもしれないが,自他の区別がないのではそもそもそうした共通の論理(というよりも,共通ということ自体)が問題にできないので,やはりこれも困難な構想ということになるだろう。

この展開は何やら感動的であるが,謎は深まるばかりというか,より困難になったような気もする。
それぞれ単体でも困難な,私,他者,言語の3つの問題が互いに独立には解くことができないことを主張しているからだ。
永井均も,西田はこの問題を解いてはいないと言っている。
永井の言い方によれば,西田は問いの意味を深めたのである。
そして,問いを深めることのほうが哲学にとっては重要なのである,というのが永井節である(no. 1044)。
哲学のこういうところは困ったものだなと思いつつも,それに共感をおぼえる自分もいる。
ひとつでは解けない難しい問いを複数組み合わせると解けるようになることがある,と内田樹はいっていたが,はたして今回はどうか(『他者と死者』)。

それにしても,永井均が西田は化け物としての天才だが,田辺はそうでない,と位置づけているのは面白かった。
ただ,田辺がそれを確信犯としてやっているのだとすると,一段深い,より深い悟りの境地にあったことになるとも述べているのだが。

2018.12.03 mon l 哲学 l コメント (0) トラックバック (0) l top